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■人間は考える葦である

パスカル−パンセより−

人間は自然の内で最も弱い一本の葦にすぎない。
しかしそれは考える葦である。
これを押し潰すのに宇宙全体は何も武装する必要はない。
風のひと吹き水の一滴で十分事足りる。
しかし仮令宇宙が押し潰そうとも人間は人間を殺すものより尊いであろう。
なぜなら人間は自分が死ぬことを知っており、
宇宙が人間のうえに優越することを知っているからである。
宇宙はそれについて何も知らない。
それゆえ我々の尊厳は全て思考のうちにある。
我々が立ち上がらなければならないのはそこからであって、
我々の満たすことのできない所からではない。
だから我々はよく考えるように努めよう。
ここに道徳の根源がある。


これを説明する語句として受容的知性と攻撃的知性という物が使われる。
個々の人間は己の世界の中で生きる。
その世界に降り注ぐ影響力を神の手であると思考する事を
受容的知性とするならば、神の手すら己の力の産物であるとする傲慢な思考が
攻撃的知性である。

古来の日本人は数多の森羅に対して畏怖の念を持っていた。
それは台風や飢饉などの天災に対して荒ぶる神として
鎮座させた事からも推察される。
自分達の微弱な力、況や己の世界だけでは無力である事を
知っていたからこそ、受容的な世界を構築し、
その範囲内で生きて行く事での安穏とした平和を望んだ。
そこには宗教や社会が絡んでいた事は言うまでもない。

近代になり外国文化が流入し、敗戦を迎える。
新しい世界の流入であり、結合であり、現代期に至っては
古来の世界を矮小な物であると捉える人もいる。
畏怖の念を知っていたからこその産物である畏敬の念は消え去り、
攻撃的な世界が構築される。
つまりは、自分の世界が他の世界よりも上等な物であるという
驕りの産物である。
それは宗教や社会の崩壊に因る物であると言って過言ではないだろう。

受容的知性を経て攻撃的知性へと進化した物であるという考え方があるが、
わたしは受容的知性の希薄な輩の行う滅亡へのプログラムであると考える。
古きを知らない、そして教えられる過程を伴わない結果が現在なのだ。
決して温故知新ではありえない。
道徳が培われるのは絶対的な畏敬な念が必要であり、
それを教える社会が必要である。

近所に乱暴で鳴らしている子供が居たとする。
母親がパートから帰って来た時に隣家の婆さんに会う。
「お宅の子供さん、今日はこんなんしてましたよ」
「あらあら、どうもすんません」
子供に問いただす。
「前の家のおっちゃんにめっちゃ殴られてん」
「あんた悪いことしたからやろ」
よく見られた光景である。
これは監視ではなく、社会が子供を育てるという行動である。
マンションの一室で1人遊ぶ鍵っ子の世界には、
近所の口煩い婆さんも、よく怒る爺さんもいない。
社会的な子育ての課程を受けなかった子供は、社会的規範を知らずに育つ。
花は芽を埋めるから育ち咲くのである。
芽すら存在しなかった者は成長して花を欲した時、
自らの力で咲かせようとする。
それが背徳の徒花、アンチテーゼとしての知性、
攻撃的知性という名の花である。

攻撃的知性とは受容的知性の温かみを知らない、
欠落した知性を有する人間の造花なのだ。

限界を知っているからこそ存在する世界の大切さを反故にし、
優しさを知らない人間は自分のルールを作り出す。
「いいじゃん、誰にも迷惑かけてないんだから」
社会から飛び出すしか仕方の無かったアウトサイダーの戯言である。

パスカルの言葉を浅はかに解釈する事の無き様。



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