■否定の上に物を見ると云う事
1.『見えても見えぬ、聞こえても聞こえぬ、分かっても分からぬ。』
こういった態度を決め込める人間が”食えぬ奴”という事になる。
2.『見えぬのに見える、聞こえぬのに聞こえる、分からぬのに分かる。』
逆にこういう態度を取る人間が”愚物”になる。
3.『見える事を見える、聞こえる事を聞こえる、分かる事を分かる。』
これは相手を選んでしまい、相手が愚物だった場合は自分が損をする。
4.『見えぬ事を見えぬ、聞こえぬ事を聞こえぬ、分からぬ事を分からぬ。』
これが一番難しく、自己の世界に線引きが出来ている人しか出来ない。
1は小ざかしく、2は冷笑、3は嫌味、4は愚鈍になる。
これは相手の脳の力に準拠した時の一例であり、自己展開すれば、
1は爪を隠し、2は悲哀を帯び、3は実直であり、4は謙虚である。
1と2の差は理解し易いが、実は3と4の間にも大きな隔たりが存在している。
4が無くても3は可能だが、3が無くては4が出来ないのである。
特に若い頃は2を選びやすく、年長者でさえも気を付けていないと選びやすい。
そして4のタイプには例外種があり、ただの無知蒙昧の輩が紛れ込んでおり、
実際過去に幾度も勘違いした事は、分別の困難さを感じずにはいられない。
1や3のタイプの年少者は非常に可愛く、特に3のタイプは溺愛してしまうが、
年長者の1や3のタイプは全く可愛くなく、4をこなせて当然であろうと思う。
年少者の4のタイプは、成長途中と云う事で温かく見つめるのが良いが、
無知蒙昧であると判断が出来た年長者は、即ち生ける屍と呼ぶしかあるまい。
人の振り見て我が振り直せ、「戒めねばならん」と繰り返し呟いてしまった。
否定の上に物作りをする年長者の姿は、唯々醜悪の極み。
死ぬまで己では理を作る事が出来ず、他人に寄生して生を貪るのだろう。
まだ換骨奪胎に終始している方が、人の形を失わずに済むであろうに。
崇高な論理の下に万象は平伏するべきだが、よりにもよって選んだ手段が
否定では頭の下げ方すらも分かるまいし、よしんば三跪九叩を覚えたとしても、
顔の上げ方を知らねば学べまい。
まさしくこれを、悲哀と言うのである。