■PRIDE23。
様々な想いが交錯した高田と田村の試合は、バーリトゥードで
未だ一度も顔面にパンチを殴らせなかった高田が、
田村が唯一放った右フックで崩れ落ちた。
KO勝ちをしても其の場に座り込み、何を喜ぶ訳でもない田村。
かたや脳振盪状態で、リング上に大の字で白目が彷徨う高田。
想いと云う名の灯火は、今夜静かに消えていった。
1993年、高田がUWFインターナショナルを旗揚げした時のメンバーに、
桜庭や山本、そして今回の田村の顔が並んでいた。
着実に実力を付けて行く田村だが、会社の彼への扱いは冷たかった。
新日本に居た時の前田日明程では無いにせよ、疎外感に似た物を感じる時も
本人以外には分からないにせよ有ったのかもしれない。
1995年8月、UWFインターの興行が下降線をたどり出した頃、
田村はトップレスラーであるゲーリー・オブライト越えを狙っていた。
オブライトはスープレックスの名人と言われたレスラーだった。
どんな体勢からでも相手を引っこ抜き、後に全日本プロレスに移籍しても、
スタン・ハンセンとのタッグなどで時折魅せるスープレックスの輝きは、
インター時代を彷彿させた物である。
さらに余談だが、オブライトが死んだのはリングの上だった。
彼の心臓は試合中に停止し、魂魄は天に駆け上がったのである。
高田が欠場明けであり、今やUインターの看板は田村一人に圧し掛かっていた。
死戦の果てにオブライトに一度勝った事があったが、もう一度白黒付ける為に、
その日メインカードとして試合が組まれたのであった。
結局田村はオブライトに勝ち、おもむろにマイクを握る。
そしてリングの下に居るべき高田にアピールをしたのだ。
「高田さん!出てきてください!」
そして現れた高田に対して、田村は続けてこう叫んだ。
「僕と真剣勝負をして下さい!お願いします!」
何も答えずに去る高田、ぼう然と後姿を見送る田村。
会社の意向とは異なったパフォーマンスをした田村は干される事になり、
まさしく新日本プロレス時代の前田日明のように、さらなる冷遇の時代を迎える。
二度と高田との試合が組まれる事もなく・・・。
前田日明率いるRINGSに行っても、他のレスラーから外様扱いされ、
元Uインターのレスラーからは白眼視をされてしまう田村。
不平を言いたくても言う場所も与えられず、求められず、ずっと耐えて来た。
1995年8月から2002年の11月まで、田村の時間は止まっていたのかもしれない。
2002年10月、PRIDE22のリング上で引退を表明した高田が選んだ相手は、
ヒクソンでも武藤でも桜庭でも、ましてや前田日明でも無かった。
高田の心残り、唯一のわだかまり。
相手に田村潔司を指名したのであった。
7年の時を越えた試合、「真剣勝負を」と訴えた田村の想いが躍動を始めた。
「なぜ田村なんだ」「ルールはどうするんだ」、様々な外野の声を一蹴して
再び体を作り始めた高田と、着実に試合に向けてペースを守る田村。
そして2002.11.24東京ドーム、セミファイナル。
ローキック主体で攻める田村と何も手が出せないままの高田がいた。
新日本時代から、第一次UWF時代から、そしてインター時代から
高田延彦を見ていない、田村との因縁を知らない一部のPRIDEファン。
事実、会場は非常に盛り下がっていたらしい。(ドーム特派員プりオ談)
しかし2R、ステップインして高田が一気に間を詰める。
パンチの連打から試合の主導権を握ろうとした刹那、田村の右フックが出る。
K-1GP95'の時のアンディ・フグvs佐竹戦の時の佐竹ダウンシーンの様に、
目が逝った状態で、そして体が伸びたままの状態で倒れる高田。
無機質なテンカウントは打ち鳴らされる事もなく、KOが宣言された。
田村「まず、高田さん、ありがとうございました。
そしていろいろ温かい目で見ていただき、ご迷惑をかけてすみませんでした。
正直、何を言っていいか分かりません。
最後に22年間、夢と感動を与えてくれてありがとうございました。
お疲れ様でした」
高田「田村潔司、よくここに来てくれたよ。
よく嫌な役回りを引き受けてくれたよ。お前は男だ。ありがとう!」
「負けた自分が言うのもカッコ悪いんですけど、
今日は、PRIDE応援ありがとうございました。
自分は試合が終わりましたけど、まだ試合は終わっていません。
最後は桜庭が締めます。がっちり応援してあげてください!」
私は前田日明のファンであり、高田延彦に対しては色々と思う処はあった。
だが、こうして一つの終わりの日を迎えてみると一抹の寂しさを覚える。