■シェイクスピアの匣
角川書店の映画路線と呼ばれる物があった。実は現在も続けられている
のかもしれないが、そこまではわたしは知らない。簡単に言えばノベルスで
原作本を販売しつつ、映画収益を図るという戦略だったのである。赤と黒の
ファンタジーを銘打ち、海音寺潮五郎が書いた天と地とを映画化したのだが、
物の見事にこけてしまったような記憶がある。原作は非常に面白かった記憶
があるのだが。
この角川路線の黄金時代に”Wの悲劇”という作品があった。薬師丸ひろ子
主演、夏樹静子原作で話題となった作品である。この夏樹静子といえば慶応
大学在学中に江戸川乱歩賞を受賞したミステリ作家であるが、”Wの悲劇”
という名前の付け方には元ネタがある。
海外で生まれた”本格推理小説”というロジック重視のミステリがあるが、
この礎を作り、そして新人を発掘し続けたのはエラリー・クイーンであった事
は異論は無いだろう。私は”フォックス家の殺人”という作品が好きなのだが、
現在”新本格”と呼ばれる島田荘司以降の作家の全ては、クイーンが作った
世界を未だに膨らませようと汲々としている。私の本棚の中にある未読の
山状態なのにどうにも手を出す気が起こらない作家や作品の全てが、この
新本格連中の書籍である事実が何とも面映(おもはゆ)い。
クイーンで有名な作品は”エジプト十字架の秘密”や”フランス白粉の謎”
などの国名シリーズと呼ばれる物である。半分ほどしか読破出来ていない
くせに全巻コンプリート済みという、非常に恥ずかしいクイーンフリークも居た
物だと、多少は自嘲気味に本棚を眺めることがある。眺めるだけで手には
取らないのだが。ただ、このマンフレッド・リーとフレデリック・ダネイの従兄弟
が作ったエラリークイーンのペンネームは、ElleryQueenの名で今も
親しまれており、彼らが創刊したミステリ雑誌”エラリークイーンズミステリー
マガジン”(E.Q.M.M.)は海外本格作家の発表の場となっている。
古今東西、和洋を問わずして名作推理短編を挙げる時には、私はクイーン
が紹介したドイツの作家、トマス・バーグの作品を言いたいと思う。題名は
”オッターモール氏の手”と言うのだが、これを超える短編作品はそうそう
出てくる物ではあるまいと、中学生の頃に一人布団の中で頷いていた物だ。
ジャンル分けなどという無粋なことをすれば、残念ながら件の作品はホラー
作品というカテゴリに含まれてしまう。しかし、面白い物は面白い、美味いもの
は美味いの神田川精神で扱いたい。
前置きが些か長くなったがクイーンが今を以っても有名たらしめているのは
国名シリーズやE.Q.M.M.の成功だけではない。四大悲劇と言われる、
即ち”Xの悲劇”、”Yの悲劇”、”Zの悲劇”、”レーン最後の事件”の四部作を
以って本格作家の代名詞として語り継がれているのである。最初に触れた
夏樹静子の”Wの悲劇”も、この四部作へのオマージュに間違いないだろう。
この四部作はエラリー・クイーンの名を以って発表された物では無かった。
従兄弟同士である二人は、ドルリー・レーンという別のペンネームを用いて
発表し、話題となってから「いや、実はね・・・」と発表するに至った訳である。
コナン・ドイルがシャーロック・ホームズを、横溝正史が金田一耕助を、
そして森博嗣が犀川(さいかわ)創平を生み出したように、作者と作中主人公
の名前が異なる場合も多々ある。しかしクイーン作品はエラリー・クイーンが
名探偵であり、件の四部作ではドルリー・レーンが老俳優の探偵という主人公
を務め上げている。そう、レーンの設定は老俳優であり、シェイクスピアを
長年演じていた元俳優の名探偵だったのである。
小学生の時に、長編4、短編56にのぼるシャーロックホームズを読破し、
今から思えば子供用に優しく翻訳され中抜きされた書籍だったにせよ、次に
何を読むか?という子供なりの悩みが出てきたのである。もうホームズ物は
読めないが、だからといって推理小説の世界からは出たくない。ここで江戸川
乱歩に進まずにクイーンに傾倒してしまったことが、現在購買する本に対して
も多少の陰を落としている。もちろん冗談だが。
ディクスン・カーや、アガサ・クリスティ、そしてクイーンの国名シリーズならば
何の問題も無かったのだ。それらはミステリの大家であり、現在発行される
ミステリ小説にも「む、これはあの作品へのオマージュだな」と、ニヤリと思える
部分が多数存在する。しかし上で挙げたクイーンの四大悲劇だけは異なり、
小学生(から中学校に掛かっていた時期か)の私には読めなかったのである。
なぜならば、元シェイクスピア俳優であるレーンが主人公である以上、シェイ
クスピアの作品を読んでいなければ理解出来ないであろう引用が、文中に
多数含まれていたからであった。これには流石に困ってしまった。
高校生の時に交換留学生で来邦したオーストラリアの子がいた。名前は
マイク(仮名)と言い、ホームステイ先として滞在していたのがたまたま友人
の家だったこともあり、帰り道はいつも一緒に行動していた。
とある時、一緒に映画を見に行ったことがある。学生服でぞろぞろ見に行く
のもどうかとは思うが、その中に青い目をした外国人が居ることもあってか、
なぜか奇異の目にさらされながら暗転するのを待っていた。幕が上がり、
くだらないダイヤモンドの宣伝も終わってしばらく経った頃、とある事実に
愕然となった。笑いのタイミングが違うのである。
考えてみれば当然の話なのだが、私たちが洋画を映画館で観る際には、
多くの人は字幕を読みつつ画面の動きに目を遣(や)る。しかしマイクは
耳で音や声を拾っているのである。文字で表せば「LOLOLOL」と品の無い
笑いを、本国ではパブリックスクールに在学するマイクが始めた数秒後に、
「くすっ」と私達が笑いの声を遅れてあげるという微妙な空間。そして字幕
には極めて普通の言葉しか表示されていない時に、マイク(仮名)が爆笑
している姿を見てしまう。いぶかしく思い、映画館を出てから彼に笑った理由
を聞いて、初めて「何故か?」が判ったのである。私たちには理解出来ない
笑いのツボが実は存在していた事を。
寄席にいきなり行って笑える人は少ない。理由は簡単で、古典落語という
物はその演目を十分に理解した上で楽しむべき物だからである。私は林家
三平という落語家があまり好きではないが、その理由を言うとすれば古典を
あまり演じずに、客いじりとクダラナイ駄洒落の名人だった事を挙げる。
もちろん好きではないだけの話で、過去のビデオなどを見ればゲラゲラ笑って
しまうではあるが。ただ落語の話は”お笑い論”に話が及ぶことにもなるので、
「ある程度の知識がなければ分からない話もある」という事だけ押さえておく。
シェイクスピアなのだ。終始作品を読むことを後回しにしようとしたのに、
結局一歩たりとも逃れる事は出来なかったのだ。そしてそれは必然だった。
日本に良い訳本が少ないという以上に、「小学生でシェイクスピアて(汗」
という、照れとも自嘲とも判断の付かない取っ掛かりの悪さをおぼえていた。
もっと後の段階でシェイクスピアの作品を読み終えた時に初めて、ドルリー・
レーンのクレジットが入った作品を読もう、その時にこそ四部作に触れようと
思ったのである。
結局高校生の頃にやっとレーン作品を読めたのだが、シェイクスピアに触れ
るきっかけとなった事実は、今にして思えばクイーンのおかげなのだろう。
この無駄な知識は多方面で応用が利いており、「あぁ、これはあれか」などと
頭を過ぎるだけでもありがたい。
例えば”ヴェニスの商人”に出てくるアントニオの友人にバサーニオがいる。
このバサーニオが想いを寄せていた女性の名はポーシャと言い、この名前は
”ジュリアス・シーザー”に出てくるブルートゥスの嫁ポーシャと同じなのである。
世界史でローマの歴史を習っている時に、「ブルートゥスお前もか。ならば
死ね、シーザー」などと言う名シーンの科白(せりふ)が頭に浮かんだが、
こういった一見筋違いな知識が繋がっていき、それが現実として役に立つ
ことが事実ある以上は、余計な知識など無いと言い切れる。
かのヒッチコックの作品の中に”North by Northwest”、公開時の名前に
”北北西に進路を取れ”という物があるが、これはハムレットの影響が強い。
殺人の疑いをかけられた主人公が飛行機で逃亡を繰り広げるのだが、その
航路であるニューヨークからシカゴの方角は北西、乗り込んだ航空会社は
ノースウェスト航空と、どこまでも韻を踏んでいる。なぜならば、シェイクスピア
の”ハムレット”に、こんな科白が出てくるからだ。
”I am but mad north by northwest.
When the wind is southerly, I know the difference between a Hawk
and a Handsaw.”
「私(=ハムレット)は北北西の風の時にだけ狂気に走る。
しかし南風が吹けば正気に戻るのだ(鷹とサギの区別が付くのだ)。」
意訳すればこうなる。これは狂気の人を演じるデンマークの王子ハムレット
が己の運命を歩み始める名シーンである。そして、この科白を知らなければ
”北北西に進路を取れ”の面白さや緻密さの理解度が希薄な物になるのだ。
古典を知らねば巨匠の掌(たなごころ)の上では遊べない。
古典それ自体のオールドファッションな美しさや面白さもある。だが裏打ち
として深みを出す作品がある以上は、それ自体を知らないで臨むことは非常
に恥ずかしいことにもなってしまう。貪欲に幅広く知ろうとする事は、新たに
何かを生み出す事にも繋がって行くのである。
そういえば、オマージュという外来語があるにも係わらず”リスペクト”なる
言葉を言う人間をよく見かけるが、どうにも聞く度に半笑いを禁じえない。
温故知新の有らざることの極みと言うか、節操が無いなぁとでも言うか。
拙僧が殺めたのだ。