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■脳と心と意識の関係

 京極夏彦は著作の中で、脳と心と意識の関係に於いて、
頗る満足できる解答を用意してくれている。
わたしなりの言葉で言い換えると以下の様になる。
「脳は現実世界のモノであり、自然物理の範疇である。
 心は非現実世界のモノであり、物理の範疇外である。
 心は常に脳よりも上位に存在する。
 五感を伝わってくる外的情報を脳は処理し、心に送る。
 心の中は雑多で論理が介在しない為に、脳に送る。
 この現実と非現実の折衝場所が”意識”である」
この説明は中々筋が通っている。
人間と動物との大きな差は、この意識と云う場所に於いて”言葉”を持ち得たか否か、
という事に集約されると思う。
「だから」と続けるが、言葉を満足に扱えない人間や、文字を用いた論理的思考の
出来ない人間など、先祖帰りの始まったサルだ。

 「人格とは何を指すのだろうか?」
心の出す指令が常に意識を通り、そして脳に於いて判断を下す状態。
この流れ、そして様が人格である。
逆説的に言えば、心と脳と意識が三位一体でなければ成り立たない。
では、人格の存在が消える時とは何時か。
非日常世界のモノに属する心は、生死を量る事が出来ない。
意識に関しても同様である。
だが、唯一日常世界のモノである脳だけは違う。
脳は神経細胞の中枢であり細胞の生死がある。
つまり、脳死状態によって人格の存在を否定することが出来る。
人格が無ければ人では無いのだから、脳死状態の人間はただの物体にしか過ぎず、
それを人間と呼ぶのはエゴだ。

 「脳障害を抱えるモノは人間なのか?」
脳障害で全身が不自由な為に、言葉を話せない少年の○木流奈が、
毛唐の治療を受けた事によって5歳の時に奇蹟が起こり、
母親を介して言葉を外界に伝える事が出来るようになったらしい。
以上は、NHKが「NHKスペシャル」で放映した嘘だ。
 人格の存在を他人に証明する為には、文字や言葉を以ってしか方法が無いと言える。
見えない、聞こえない、話せないというヘレンケラーでさえも、
言葉の発声でしか自己存在の表現手段は開かれなかったのだ。
上の例は「息子が人格を持つ生物であって欲しい」という、
両親の願いが生み出した似非人格であって本人のモノでは無い。
○木流奈が誰の手も借りずに存在証明して初めて、人格の証明になり、
そこで初めて人間になるのだろう。
同時に、自己表現の出来ない脳障害の人間は人では無いとなる。
繰り返すが、人格を持たぬモノは人では無いのだ。

 世の中が見えにくいのではない。
開始位置と終了位置が定まっているのにも拘わらず、
故意に見え辛くしている輩が居るのだ。
曖昧さは優しさではなく、愚物の所業である事に気付け。