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■続・脳と心と意識の関係

「脳は現実世界のモノであり、自然物理の範疇である。
 心は非現実世界のモノであり、物理の範疇外である。
 心は常に脳よりも上位に存在する。
 五感を伝わってくる外的情報を脳は処理し、心に送る。
 心の中は雑多で論理が介在しない為に、脳に送る。
 この現実と非現実の折衝場所が”意識”である」

 無意識と云う言葉を口の端に乗せる輩の多くは、”意識”の定義が
そもそも出来ていないにも関わらず、使用している風にしか見えない。
虚数とは実数があってこそ考えられる世界である以上、その定義詰めが
為されずに異相を語るのは間違いだろう。
 心に抱くイメージが薄弱たる物であり、結果として下位に属する脳が
明確に情報処理を出来ない時、意識という器官は曖昧模糊な物しか
取り扱えないことになってしまう。
トカゲの尻尾切りと同じで、心という器官が腐食していると、
下位器官である脳や意識という物が機能できないのだ。
つまり、運用時に支障をきたす程の心を持つ人間が、下位器官の意識が
機能しない事を直視出来ずに構築した物を、”無意識”であると
身勝手に呼んでいるだけではあるまいか。
 わたしの考える無意識とは、心の下位器官である脳に於いて
未だ支配されていない領域があり、其れと心を繋ぐ部分を指す。
無意識下と呼ばれる行判断や行動という物は、「論理的」ではなく、
「思ってもみない」物であることから、心の非支配下である事と、
その統制化である脳を介さない事を充たしてしまう。
だからこそ、脳に未支配の領域の存在を考えてしまうのだ。

 昨今流行っているキチガイの言い訳である処の「心神喪失」とは、
ここで云う無意識と明確な線引きが出来ず、合致する物である可能性が高い。
三位の位置付けが明確ではない能無し共も、キチガイも、
無意識の存在を安直に捉える辺り、大して変わらない存在だ。
もしもわたしの考えるように”未支配の脳領域と心との折衝場所”、
つまりは裏の意識を無意識であると証明される日が来たとしたら、
それを抱く者を「完全に脳を運用出来ぬ者」と言えることになる。
奴等に差など無く、目糞鼻糞であると。

 勿論わたし自身未だ統制しきっておらず、人の身では不可能かもしれない。
だが、目指さずして虚数を認める様な真似だけはしたくない。