2003/6/29 【東京】
夢があった訳ではなく、生涯唯一の親友が「俺、東京で就職するわ」と言い、
彼の近くに居られるだけで良いと思って始めたのが、私の東京生活である。
恋愛感情に近いと考えて差し支えない。
KANの東京ライフと云う歌を漫画「ツルモク独身寮」で知ったが、私にそんな
オセンチさは無く、ただの事象と捉えるだけである。
以前無くした携帯電話はどこに行ったのかなぁ。幾人かのメモリーが勿体ない。
引っ越し荷物がどえらい事になっている今日この頃。
2003/6/26 【火の鳥 −男編−】
「智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。
兎角に人の世は住みにくい。」夏目漱石の草枕の一節である。軋轢も情動も
窮屈も無い世とは、桃源郷の張りぼてを叩き壊せば何色の世界になるのか?。
恐らくモノトーンではなく無色、味気ない社会であり無味無臭の世の中を指す。
他人に評価してもらって初めて成り立つ価値を、なぜか自分で評価し始めた
としたら、その瞬間に人間は駄目になる。逆に言えば、他人からの評価は評価
として必要以上に気にする事なく人間は過ごしていくべきだ。主に据えるのは
能力と自信、そしてそのバランスから生まれる気位となる。
自分が他人から与えられる評価で最も無意味な物は「優しさ」であり、逆に
最も有意義な物は「沈黙」である。「優しいね」と言われて得る物は何も無いが、
沈黙は果てしなく脳細胞を活性化させる。男は優しさを自覚した瞬間にクズへと
変貌するが、何も与えられない飢餓感は一段高みへと歩ませる。
色と色の境界を甘やかせて溶かし、優しさで丁寧に梱包し、馬鹿になることで
全てを放棄する。無色を望むぐらいならば、全てを黒く塗りつぶした方がマシだ。
無色の後は漆黒、漆黒の後は無色であるとしても、無色は放棄の結果であって
漆黒が燃焼の結果である以上は、漆黒を目指してこその男だ。
2003/6/23 【或る阪神ファンのボヤキ】
「優勝して欲しいな」は許されるが、「優勝する」は許されないのが阪神ファンと
言って差し支えない。一年を通じて弱くても当然、リードは巻き返されても当然、
こうやって応援し続けてきたのが阪神ファンなのだ。
いくら11ゲーム差(本日時点)と云う傍目には独走を示す数字が出ていても、
臆病な私達からは不安の二文字を拭い去る事は不可能なのである。マジックが
たとえ1になったとしても、「いや、まだ分からんで……(汗」と云う阪神ファンが
多数を占めるのではないだろうか。いわゆるニワカ阪神ファンの人であっても
ファンが増える事自体は嬉しいのだが、「絶対優勝するで!」と声を上げられると
少しだけ顔をしかめてしまう私が居る。虐げられる事に慣れ、空元気の発言で
育ってきた私達は、彼らの言葉を勇気ではなく「蛮勇」と捉えてしまっている。
そもそも、檜山の凡退や藪の失投に対して、必要以上の罵声を浴びせられる
彼らの性格が許せないのだ。阪神が低迷していた頃に中軸として努力し、また
エースとして毎年フル回転していたベテランに対して、「長い間お疲れ様です。
今年こそは皆で美酒を」と思えないファンの存在は悲しいではないか。もちろん
横浜ベイが優勝した時に「子供の頃からファンでした」と厚かましくも言い出した
佐藤藍子のようなニワカは、比較するまでもなく話にならないのだが。
私は星野監督が好きではないが、星野を礼賛して前野村監督をこき下ろせる
人達が信じられない。野村が見つけ出し、種をまき、育ててきた選手が何人も
居ると云うにも関わらず、その事実をまるで知らないかのように放言し続ける。
データと理詰めの野球が阪神選手には根付かず、野村の任期は全て最下位と、
叩くには絶好のエサがあるが故なのだろうが、余りにも恩知らずではないか。
1985年に日本一になった時の監督は”牛若丸”ムッシュ吉田だったが、彼の
監督業は「あまり口を出さずにのびのびとやらせる」だったと思う。1992年に
2位と云う好成績を出した時の監督は中村だったが、打線がどうしようも無かった
事もあって、「好きにせえ」とサジを投げたような采配がはまった結果だと思う。
阪神の選手には玄人好みするような理詰め野球は無理なのである。だから
今年の阪神の好調ぶりは、星野監督の「素人丸出しの采配」がはまっているに
過ぎないと思うのだが。
もちろん私が南海ファンであるために、南海の偉大なOBであり、南海の監督
でもあった野村を贔屓目に見ている事は自覚している。星野ファンには申し訳
ない物言いだと思うが、彼の采配で上手いと思ったことは一度たりとも無いのだ。
何気なく親父に電話。
私「もしもし、おとはん? 土曜の試合見た?」
父「見た見た」
私「アホの長嶋、途中で押し黙っとったな」
父「そうやして(笑」
私「気分良かったわー」
父「ほんまにほんまに。ほなまたな(ガチャッ)」
私「あ、、(ツーツー)」
仲が良いのか愛想無しなのか、さっぱり分からん親子ですな。
2003/6/23 【奪”脱”没個性】
「自分」の代名詞として、男は「俺」や「僕」や「私」を使うが、女で「私」や「あたし」
ではなく「俺」や「僕」を使う人がいる。それを俺女や僕女と云うらしいのだが、
リアルでは耳にした事が無くても、ネットでは目にする事が多いのではないか。
つい昨日まで「あたし」だった人が「俺」と言っていれば流石にギョッとするが、
だからと言って本気で制したりはしない。しかし嫌だなと云う感情は消えない。
リアルでは没個性を邁進し、少数派や平均からはみ出した人間を虐げる事を
好む割に、ネットと云う「匿名性の上に構築するコミュニケーションの場」では
没個性を厭う人達が多いのが不思議である。ハンドルネーム等は場所限定で
人間を分けるための文字列であり、ネット全体で一意である必要は全く無い。
それなのに脱”没個性”を望んでしまうのは、緊張と緩和や、専政と共和と同じく、
無い物ねだりと云う欲深いエゴの衝動なのだと思われる。滑稽極まりない。
また余談だが、「自分」の代名詞の選び方も面白い。「我」や「吾」、「朕」などと、
それこそリアルでは全く見ないし聞かないような一人称代名詞を見かけるのだ。
たまたま私は「私」を選んだが、リアルと同じく「わし」でも別に構わなかった。
家の中では強気で外では弱気な人を内弁慶と云うが、私はさしずめ外弁慶に
相当する性格だと思われ、ネット空間にダイブすると云う「外出」では荒々しい
顔が出てしまう怖れが大いにあった。故に「私」を選択した訳だが、外面ではなく
内面を出す上で、「私」と云う呪詛は実際大きく作用しているようだ。これが「朕」
だったら果たしてどんな言葉を操っていたかと、想像するだけでも可笑しい。
「麿(まろ)」なんて一人称は狙いすぎていて面白くないが、「本官」や「拙僧」は
少し面白い。ちなみに大阪女でもないのに「うち」と言う東京男をネットで見たが、
面白い面白くない、笑える笑えない以前の話として、少し殺してやりたく思った。
いくらなんでも反則だろう、それだけは。
2003/6/22 【だってダメ人間だもの】
非常によく聞かれる話だ。→■ →■
つまりは、日本語の乱れを危惧する人達による「正しい日本語を使いましょう」
と云う類のニュースである。しかしこの手の話題をする時は相手を選んでしまい、
「正しい日本語を使わない人」ではなく「正しい日本語を使えない人」からの反発を
生んでしまう。
この類の話を扱う私とて、完璧な日本語を扱える訳ではないのだが、少なくとも
誤っている箇所を指摘されれば「なるほど」と修正をする。この「なるほど」と相手
の発言を咀嚼する事が出来ず、「時代と共に言葉は変化して行く物であり、不変
の物ではない。だから誤った言葉を用いている母集団が大きくなれば、それは
認知された物と考えても差し支えない」などと言い出す人も現れる始末である。
己の不勉強さを棚に上げた放言は厚かましい、これが結論となる。
私自身も十分気を付けておかねばならないが、物事の誤りや過ちに対して、
かしましく言ってくれる人が居る事が希有、言ってくれる内が華と思えないのは、
己の心の貧しさを意味する。他人の配慮とは、見え難くて気付き辛い物なのだ。
お里が知れると云う言葉がある様に、どんなに良く出来た仮面を付けていても
何かの拍子に育ちを知られてしまう。この「何かの拍子」とは、食事と言葉遣いを
指す事が多い。
食事中に何気なく出てしまう癖は修正のしづらい物である。私はお箸の使い方
が今でも苦手で上手く使えていないし、一人暮らしを始めてから一人の時には
全く食事のマナーを守らなくなったが、人前ではちゃんとマナーを守っている。
・食器を持たずにテーブルに口を近づけて食べるのは「犬食い」。
・クチャクチャと音を立てて食べないこと。
・左手は食器に添えて食べること。
・左手をテーブルよりも下で遊ばせてたりしないこと。
・テーブルにヒジをついたりしないこと。
・ねぶり箸、涙箸など、お箸のマナーは多数。
こういったマナーを知った上で「自堕落ラヴ」と自分の部屋で食べるのは良いが、
知らないままで育ってしまうと、外食の際に人から「ああいう人か」と認識され、
指摘もされないままに過ごしてしまうことになる。
言葉遣いでも同じ事が言える。少々言葉を間違って用いても許される物だが、
過ぎたれば失笑では済まなくなる。冒頭のリンク先ではないが、覚える時期に
覚えずに育ってしまうと、歪な敬語謙譲語を操るダメ人間が一丁上がりなのだ。
幼年で親からしつけられるのは最上だが、若年の内に教えてもらえるのも
人と良い出会いをした事を意味すると思う。だが年を取っても出来ていないのは、
「過去に指摘されても直らなかった人」と云うレッテルを貼られ、もはや誰からも
指摘されない事を意味してしまう。げにや恐ろしき話ではないか。
余談だが、気になる異性が居るのであれば、早期に食事に誘った方がいい。
食事中のマナーと言葉遣いと云う、お互いに仮面では隠しきれない物が垣間
見える場所だからである。相手の食べ方を見て冷めるのもよし、逆に相手から
冷めた視線を送られているのを気付くのもよし……。
私の場合は左手を遊ばせている人を見た事が多く、「ううむ」と心の中でこっそり
幻滅する事が多々。怖ず怖ずと指摘しようかとも思うのだが、もし配慮を攻撃と
取られたら?と思っただけでも恐ろしく、心の中で「早く店から出たいなぁ(汗」と
思うだけに留めている。こんな私もダメ人間ですか、そうですか。
2003/6/21 【想像してごらんよ、とLennonは言っていたが】
昔レインボーマンと云うアニメがあった。「インドの山奥で、終業して〜」と云う
歌詞で始まるのだが、この主題歌の替え歌が大富豪のルール並に地方によって
微妙に異なる。
『インドの山奥「で」んでん虫かたつむ「り」んごは真っ赤っ「か」』。ここまでは
各地で大差なく伝わっているのだが、これが後に行けば行くほど大きく異なる。
『「か」あちゃん怒りん「ぼ」くはしかられ「た」』。ここまでは多少の差異として十分
容認出来る範囲である。だが、『「た」んたんタヌキのドキンタマ、風に吹かれて
揺れている。それを見ていた妹が、鼻血を出して死んでいた。』と私の地元では
繋がっている。
地元の品性が知れる恥ずかしい話だが、文章の後半に行けば行くほど原形
(その存在は知らないが)を留めておらず、自由に地方色が出ているのは、
まさしく当時の子供達による伝言ゲームそのものだったのであろう。現在ネットの
拡がりにより失われている物があるとすれば、こういった「足りない言葉を創造力
(or想像力)で補填する」と云う部分になる。
以下余談。
「ミスチルのTomorrow Never Knowsが好きかなぁ。」と言っていた人がいた。
ファンかと思って聞いてみればそういう訳でも無く、なぜTomorrow Never Knows
を好きと言ったのかが分からなかった。
私は歌詞を頭に入れる人ではなく、歌詞カードが有っても見ない人である。
BGMにかけていた曲がミスチルカテゴリに移り、何気なく頭に歌詞を浮かべて
聴いていた時、その発言の意味が今更ながらに分かってしまった。全知全能
ではない以上、全てを理解することは不可能だったとしても、この程度の事さえも
分からない脳は痴れる臓物に過ぎない。私が馬鹿なのが全て悪い。
「この曲のギターソロが堪らない」、「高音ヴォイスがうなってるね」、こう云った
曲の褒め方ではなく、「歌詞が良い」と褒めて人に勧めた記憶が私には無いが、
和製パンクで最も有名だと思われるブルーハーツの歌詞が、万人受けはしない
とは思うが好きな部類に属する。リンダリンダなどは未だに色褪せない。
2003/6/20 【2003年日本シリーズ 阪神タイガースvsダイエーホークス】
独走などと煽られても、安心なんて言葉とは無縁なのが阪神ファンの心だが、
「セリーグの灯が消える」だの「ベイスターズはヤル気があるのか?」などと云う
読売ファンと思しき人達からの煽りには、どうにもイラつく心を抑えきれない。
今日現在、5球団からベイスターズの勝敗分を全て取り除いた場合、貯金がある
球団は阪神だけと云う現実を認めなければいけない。2位と云う位置で「メーク
ミラクル」と云う不思議な英語を操る読売は、横浜ベイのおかげで貯金球団で
いられると云う現実を忘れてはいけないのである。
さすがに今年は優勝もして欲しいし、親父と阪神戦を観ながら酒を酌み交わし
たいとも思うが、私達は「弱い地元球団としての阪神」を愛しているのであって、
毎年こんな強さを見せられるのは勘弁なのだ。何事も過ぎたれば食傷を生む。
「ホークスは不滅です。行ってまいります。」
1988年10月、杉浦監督が大阪球場でファンに語った言葉である。歴史のある
阪急ブレーブスが身売りし、同じく南海ホークスも身売りした年だった。ファミスタ
から最強球団レールウェイズ(南海&阪急&近鉄)が消えた年でもある。
ダイエーホークスが優勝した1999年ほど複雑な気持ちを感じた年はない。
南海ファンからダイエーファンにホークスの所有権が移動した事実を気付かされ
子供の頃からの「セリーグは阪神、パリーグは南海。でも南海の方が好き。」
と云う気持ちに、強制的に終止符を打たれてしまった。球団が身売りをしてからも
ホークスファンとしてダイエーを応援し続ける人達が大阪に多数残っているが、
杉浦監督の言葉も今は昔、もうホークスは九州の人達の所有物なのである。
1964年、阪神タイガース対南海ホークスと云う夢の日本シリーズが存在した。
巨人初代監督であった藤本定義が阪神の監督として、そして鶴岡が南海の監督
として争い、南海が日本一を決めた年であった。
子供の頃から夢見ていた「阪神vs南海」と云う夢の対決は実現しなかったが、
形を変えて「阪神vsダイエー」と云う形で、今年実現しそうな気配がある。1964年
の意趣返しが出来るか?と、大阪タイガースの頃からのファンである親父などは
喜びそうだが、ホークスはホークスでも「ダイエーホークス」である以上、やはり
私は阪神の応援をすると思う。このわくわくする気持ちだけは、南海の身売りに
よって仕方なく阪神ファンになった人達にしか分からないのかもしれない。
阪神ファンはカルト宗教的で異常だと揶揄される事も多々あり、それは東京に
対する反定立としてのレーゾンデートルの確立だと理由を説明する人もいる。
要は「アンチ東京の気持ちで阪神を応援している、ひねくれ者達の思念の集合」
と言いたいらしいのだが、タイガースvsホークスを心待ちにしている人達にすれば
取って付けたような分析結果に過ぎない。私達の根底はアンチではなく、純粋な
憧れの気持ちなのだ。
2003/6/15 【46番のGUN BOY】
原田に悪質なチャージをして250ccのチャンプになったり、加藤大治郎の死を
悲しむ発言をしたりと、よく分からないイタリア人がカピロッシである。好意的に
見れば勝負にはクールで人間的にはホットな男なのだが、客体が日本人と云う
状態でカピロッシを見てしまう以上は、どうしても複雑な見方になっている。
スペインのカタルニヤサーキットで行われたモトGPだが、トップを走行中の
現チャンプであるロッシがコースアウトをしてから、俄然レースが面白くなった。
匹敵するような強敵が居らず、「敵はタイムのみ」と云うモチベーションとして
目に映っていたロッシが、8秒差の6位に順位を落とした事により切れたのだ。
最速ラップを刻みつつ、刻みつつ、刻みつつ。気が付けば3秒遅れの2位で
チェッカーを受けていた。まさにリアルGUN BOYの具現化であり、頭の中にある
”最速=シュワンツ”の式を塗り替えるような、そんな速さを見せつけられた。
もちろんヒーローは数十年ぶりにGPシーンに戻ってきて、わずか6戦目で
表彰台の真ん中に立ったDUCATIであり、カピロッシである。日本メーカー以外が
勝つのは6強時代のカジバのコシンスキー以来だと思うが、イタリアボローニャの
メーカーであるDUCATI、同じくボローニャ生まれのカピロッシと云うコンビが勝つ
のは格別の物があっただろう。心からおめでとうと。
私達は加藤大治郎の死を悼んだ。その理由の一つには、日本人が日本車で
一位表彰台と云う原始的且つ素直なナショナリズムを発揚する、最も近い存在が
彼だったんだよなと、カピロッシやDUCATIチームの光景を見て思ってしまった。
2003/6/15 【続・フェミニズムを貶める主格は】
母体保護法14条にあるように、未婚状態の堕胎の場合は母親の同意だけで
中絶手術が可能であり、つまりは父親には同意権自体が存在しないのである。
胎児は人ではない以上、極楽とんぼの山本側への人殺しと云う誹謗中傷は
筋違いであると書いたが、「同意権」を持つのが母親のみであると云う事実を
忘れてはいけないのである。
感情論に任せた男への誹謗中傷は、実のところ同意書にサインをする女を
傷付けている。「中絶強要」と云う恣意的な見出しを付けようとも、その決定権が
女にある以上は、フェミニズムに満ちた安直な擁護は女側を貶めているのだ。
フェミニズムを貶めている主格とは偏見に満ちた人間なのである。
2003/6/15 【ヘヴィーメタル音に捧げるパヴァーヌ―独唱―】
どんなに鬱状態であっても、曲が開始して僅か20秒でMAXにまでハイになれる
私の一曲は、聖飢魔IIの「1999 SECRET OBJECT」と云う曲である。次のシングル
であるStainlessNightからCDシングルとして発売されたはずなので、レコード単独
としては最後のシングル曲であったのではないだろうか。
時代の流れを感じる話ではあるが、初めて買ったCDシングルがStainlessNight
であり、CDアルバムは氷室京介のFlowers for Algernonだった。暴威世代であり
ヘビーメタルが耳の早い連中の内で聴かれていた頃の話である。
予約をして発売日に買った氷室のアルバムはクラスの誰からも「貸して貸して」
のオンパレードだったが、本命で買った肝心の聖飢魔IIの曲を貸してくれと言って
きたのは、わずか3名程度だったように思う。「悪魔教」と云う触れ込み、見た目が
KISSだった事、微妙に躊躇させるに十分な理由があったのか、私を含めた数人
の間で話に上がるだけだった。私達はルーク篁III世の早弾きに惚れていた。
「1999 SECRET OBJECT」はシングル版と、1999年のリミックス版と、リミックス
のライブ版の3つを今でも聞く事が出来るが、ライブ版でルークが聞かせる音が
私の最も好きなギター音と言って差し支えない。手相で云う月丘でミュートをした
オルタネイティブ音や、甲でミュートをした金切りめいたスラッシュ音を存分に
聞かせてくれるのである。どんな時でも耳の飢えを潤してくれる名曲なのだ。
和製ヘヴィーメタル(以下HM)ではX(X Japan)が有名であるが、Xのメタルは
やはりシンフォニックメタルである。王道HMとして活動し、数々のメタル音で耳を
潤してくれたのは聖飢魔IIであると信じて疑わない。
先日メタリカの新譜が発売された。RELOAD以来、実に6年ぶりのアルバムで
元オジーオズボーンのベーシストが参加した事もあり、期待値の高まりは当然の
話だった。だが高評価と酷評と云う、「どっちやねん」な評価が並んでいる以上、
実際に買って確かめてみなければ分からなかった。
購入し、アルバムを通して聴き、4回程繰り返し、結論が出た。このアルバムは
非常につまらないのだ。アルバム「METALLICA」で「これがスラッシュメタルじゃ」
と驚かせてくれた勢いは既に無く、面白くないリフが繰り返されていた。麒麟も
老いては駑馬に劣るか……と、言わいでもな愚痴が出そうになった。
METALLICAやMEGADETHと云ったスラッシュの大御所は、過去に作っていた
音をもう一度出して欲しい。「ギターは正確に弾こうとしちゃダメだよ。勢い。」と
私のギターの先生は言っていたが、スラッシュこそ勢い無しに成立しないはずだ。
私はまとまった音を聞きたいのではない。暴力的で狂騒的な音が聞きたいのだ。
好きなギター音を追い掛けて様々なジャンルの数多のバンドを舞い踊る様は、
ずっと一つのバンドを聞いている人から見れば節操が無く、滑稽な物として目に
映るのかもしれない。私には耳を潤したいと云う欲求、唯それだけなのだが。
聖飢魔IIのヴォーカルであるデーモン小暮のMCの一節を。
『他人に合わせて生きるのは美しい。自らの感情を抑えるのは知的だ。
そうやって社会の歯車として不適切なゴミ野郎達を排除し、
ピカピカに磨き上げられたこの巨大科学文明社会に於いて――。
楽しいときに笑い、怒ったときに吠え、悲しいときに泣くことの出来る場所が
コンサートホールや、演劇会場や、スポーツ競技場や、大黒ミサだけだとしたら
それは余りにも悲しい社会ではないかね?
Tonight,it may be your stainless night. 』
2003/6/14 【ボーダーレスには多大な注意義務が発生する。】
ネットでしか会わない人、ネットでもリアルでも会う人、リアルでも会う人。この
三つのパターンが有るとして、ネットでもリアルでも会う人の情報を、ネット限定や
リアル限定の人達に勝手に流布することはルール違反である。
ネット限定の友人にリアル友人の話をする場合は、多少のフェイクを入れる。
これは「何か」を考えた場合のリスクヘッジとして当然であり、「山田太郎君(仮名)
と云う友人が先日……」とネット上で話し始め、何か不都合が起こった場合には
責任の一切を取れないからだ。特に女性の場合は過度のフェイクを入れて話を
するのが最低限のマナーである。
逆にリアル友人にネット限定の友人の話をする場合は、元々がハンドルネーム
と云う匿名性を帯びさせるに十分な環境であるが故に、リスク云々の気配りは
あまり必要ではないと言える。本名がハンドルネームであると云う、ネット全体を
見れば特殊な例もあるが、自分がそれを知っていた場合にフェイクを入れれば
良いだけの話である。
問題は、リアル友人グループにネット限定の友人が入り、その人にリアルの
情報を流した場合である。もしくは、ネット限定の友人グループの一部にリアル
でも会った(OFF会等をした)人が生じた場合である。この時に注意義務を怠る
人が一人でも居た場合、構築してきた関係は容易に壊れる。男女の関係が崩れ
出す時と同じく、フィフティフィフティの関係では無くなった時がこれにあたる。
例えば、OFF会参加者同士でしか得られない情報や写真等といった物を、本人
の意志を抜きにして勝手に流された場合、匿名性に帯びた方はノーリスクであり
OFF会参加者のみがリスクを帯びた状態になってしまう。こういった不公平極まり
ない状態を起こさないためには、参加者の全員の注意喚起が必要となるのは
言うまでもない。Aのリアル情報を勝手にBに流したCは、Aにどれだけなじられ、
関係がぶち壊しになったとしても、それを享受せねばならないのだ。
私はそもそもOFF会などに出かけない人なので、ネット上の友人のリアル情報
は本人が自ら発した物しか知らない。会った事がある人が居ても問いただしたり
しないのは、自分の耳で入れた情報が確実だと思っているからであるし、その人
にとって非常に失礼な事だと思っているからでもある。私だけが友人の個人情報
を知っていて、友人は私の事を何も知らないと云う関係は、やはり異常である。
ところがこう云った「自分がされて嫌なことは相手にもしない」と云うモラルは、
たった一人の馬鹿が出現することで簡単に壊されてしまう。
先日、ネット上の友人から聞いた話である。とあるOFF会に出席した時の話が
非出席者に知らない間に流れていたと云うのである。どの程度の情報なのかは
知らないが、問題は、その情報の重要性を決定するのは「流された方」であって、
「流した方」ではないと云う事を、流した方は全く考えていなかった事に尽きる。
流した方がボーダーレスを宣言する勇者(猛者でも可)であろうとも、対象者の
意思確認を抜きにした「お前もボーダーレスだろ?」と云うべき押しつけ行為は、
その人間の品格が知れるのだ。更に友人の場合には、そのボーダーレス宣言を
一方的に押しつけてきた愚者をたしなめる者が全く現れなかったと云うのだから、
甚だ可哀想な被害者であろう。
ネットとリアルの境界を行き来するボーダーレスの友人は、互いに吟味し合った
上で構築しなければ、取り返しの付かない事になってからでは遅いのである。
安易にOFF会等に出席するのではなく、面子確認が非常に大事なのだ。
余談だが、昔ネット上の友人から「○○さんって可愛いの?」と聞かれた時に、
感想ぐらいは構わないのかなぁ?と「うむ。めっちゃ可愛い。」と答えた事がある。
それ以上の事は必要性も無いので何も答えなかったが、もしかするとその女性に
とっては「言わなくても良いことを何故言う?」と云う話だったのかも知れず、今
こうやってタイプしながら思い返してみても、「白寄りとは云えグレーゾーン」の域
を出る事はない。やはり、一切を云うべきにあらず、一切を聞くべきにあらずだ。
2003/6/14 【フェミニズムを貶める主格は】
極楽とんぼの山本が突き上げを喰らっている。→■
婚姻状態ではない男女が深い関係になり、女の体内に胎児が宿った。しかし
両方からは望まれない妊娠であったが故に男は堕胎を望み、女はそれを了承し
中絶手術を受けた。ところが、女はマスコミにその一連の事実を公表して幾ばく
かの金銭を得た。男=山本、女=ホステスである。
感情的になって山本叩きをしている人達の理屈は全くもって読む気がしない。
成人した未婚の男女に子供が出来てしまい、結果として中絶をした。これだけの
話であるにも関わらず、「人殺し」といった頭の弱いご意見が噴出しているのだ。
そも、人とは何か。刑法では頭の一部が露出した時、民法では全露出した時に
初めて、胎児と云う名の生命体ではなく「人」として権利が発生する。法律上では
胎児は人にあらざる生命体に過ぎないのだ。人殺し等と云うふざけた誹謗中傷は
これで排除することが出来る。
避妊具を付けさせる権利、避妊薬を飲ませる権利、男女両方が持つ権利で
ある以上、どちらかだけが一方的に悪いなどと云うことは有り得ないのだ(強姦等
の話ではないのだから)。男女の責任が同一である以上、慰謝料云々と云う話は
おかしな話であり、こんな話の時だけ「女性は被害者」だの「女性は弱い」だのと
権利主張をするのがフェミニスト共の言う権利拡張論だとするならば、まともに
耳を傾ける気にはならない。
職業差別を自覚した上で言うが、店を離れた場所の話とはいえ芸人とホステス
の間の話である、山本側の「子供つくろうか。自分の子供も見たくなった」を
額面通り受け取るのもおかしな話である。ホステス側の会話部分がごっそりと
抜け落ちているのも信憑性を薄くさせている上に、「子供作ろうか…」を口説き
文句やピロートークと受け取れないホステスなど、かまととにも程があろう。
民法の基礎の基礎である、93条心裡留保――嘘と分かっていた約束や、そうと
しか取れない約束は無効である――で考えれば、山本の言質を取ったつもりで
何やかやと言っている女の浅ましさが浮き彫りとなると思われるし、「ホステスが
それを言うなよ」と考えるのも当然である。心裡留保を知らないか、世間の水商売
に対する視点を「普通の職業」か何かと勘違いしているとしか思えない。
・刑法212条 堕胎罪
妊娠中の女子が薬物を用い、又はその他の方法により、堕胎したときは、一年
以下の懲役に処する
・母体保護法(旧優生保護法、刑法212条の特別法)
第14条 医師の認定による人工妊娠中絶
1項 都道府県の区域を単位として設立された社団法人たる医師会の指定する
医師は、次の各号の一に該当する者に対して、本人及び配偶者の同意を得て、
人工妊娠中絶を行うことができる。
一 妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく
害するおそれのあるもの
二 暴行若しくは脅迫によつて又は抵抗若しくは拒絶することができない間に
姦淫されて妊娠したもの
2項 前項の同意は、配偶者が知れないとき若しくはその意思を表示することが
できないとき又は妊娠後に配偶者がなくなったときには本人の同意だけで足りる
実際、刑法212条の堕胎罪は有名無実と言って差し支えない状態にある。
「胎児が母体外において生命を保続することが出来ない時期に人工的に胎児
及びその付属物を母体外に排出すること」、これが中絶の定義であり、妊娠から
22週以内までに行われた中絶行為は、生命維持装置に入れても生命保持が
出来ないことからも、「堕胎罪」として訴えられることは無い。年に数件だけ起訴が
確認されている堕胎罪は、殆どが23週以降に人工中絶した場合に限られる。
母体保護法の――私は家族法の講義で優生保護法と習ったので、未だについ
言い違えてしまうが――「経済的理由」を主として100%に近い確率で22週以内の
中絶が可能である。年間30万件とも言われる日本の中絶件数を鑑みれば、
別段「じゃあ私も……」と追従する話ではなくても、珍しい話では無いと言える。
「極楽の山本はヒドイ奴だ」とステロタイプ化(紋切り)する人達は青臭いのだ。
私は過去に何度か「妊娠したかも」と言われた事はあるが、妊娠検査薬だけで
判断して一喜一憂したりするのは間違いである。産婦人科の検査結果が分かる
までは泰然自若とし、それまではその件に付いて一切口を開かないことで男の
値打ちが決まると思っている。
「妊娠したかも」と口に出した瞬間の男の顔色を見て真意を量るような女がいる
以上、男は麻雀やカードゲームでポーカーフェイスを鍛えておくことを奨める。
一瞬の間を抜けきり、逆に女の顔を見やる余裕を持つべきである。別に勝負事
ではないのだが、駆け引きの天秤に妊娠を乗せる女にロクな奴はおらず、腹の
内を見せる隙など与える価値はない。見られているのは見ている方なのだ。
2003/6/12 【600円の映画】
先月27日とは別の理由で、白いベッドに寝ころび天上のシミを見つめていた。
「電話かけても繋がらねぇよ」とメールを送っていただいた方、申し訳ありません。
マトリックスのリローデッドを見てきた。モトGPでカピロッシが跨り活躍している
こともあってか、DUCATIのバイクが若干右肩上がりのセールスを記録している。
リローデッドでもこのDUCATIの996というバイクが出ており、そのカーチェイスの
シーンはとても面白いのだが、「DUCATI乗り」という方々に若干偏見の目がある
私としては、少し「うーむ」という感覚が残ってしまった。そもそも996の流線形状が
美しいとも思えないし、細い2つ目の顔は好きじゃないし、採用の理由は監督の
趣味なのではないだろうかと。仮に私がDUCATIが10段階で3程度の偏見の目を
向けているとすると、ハーレーには8から9程度の偏見があると言える。つまり
DOCATIはそれほど嫌いではないのでオーナーの方は怒らないで下され。
映画の内容自体は次回作のレボリューションを見ないと何とも言えない形に
なっており、バックトゥザフューチャー2でお預けを喰らっている形を想像すれば
丁度良いと思われる。系統が違う物と比較して「どちらが上だ下だ」と論じるのも
愚の極みだが、繋ぎとしての完成度と云う意味でスターウォーズエピローグ2を
10段階の7とするならば、リローデッドは5程度だろうか。単体で楽しめない話で
完成度が高いなどとは言えた物ではない。
クンフーのシーンは70年代後半〜80年代初頭に於けるリー先生とジャッキーの
黄金時代と比較するには至らず、冗長で荒唐無稽な駄々流しに過ぎなかった。
あんな物で満足するのは、K-1を見て「ガチだよガチ」と言うような物であって、
まともなアクションを見て育った人間ならば、吹き出すことは受け合いであろう。
結局、唯一褒められるのはカーチェイスだけになる。映画トゥルーライズで
監督のジェームスキャメロンは、リアルな爆破シーンを取るために橋を作り、
それを実際に爆破するという形で演出した。リローデッドも実際に道路を作り上げ
CGと融合させた映像であり、上で触れたDUCATI996で滑走する。そのシーンを
見つつ、私がバイクに乗っていて目の前に次から次へと車が迫ってきたら?と
一瞬想像した時に、「うわっ」と冷や汗が出てしまった。仮想現実を題材にした
映画で仮想映像(CGやワイヤーアクション)に迫力を感じてしまった一瞬であり、
このシーンだけは500円の価値がある。
「うわっ」と思わせ代が500円+996の後方排気の仕上げ具合に100円=600円。
冷静に考えればこの程度の映画に過ぎない。