2003/7/31 【男として】
人生には幾つかのターニングポイントが存在する物だが、私のそれを何年ぶり
かに思い出したのが一ヶ月前なのである。記憶からは消えていたはずなのに、
引っ越し荷物から出てきた手紙の一つを取り上げた時、一気に蘇ってしまった。
私が新入社員だった頃、同職種で別の大手企業で勤める女の子が居た。
彼女はいわゆる超エリートと云う学歴であり、偏差値は上から数えて数番目
と云う高校と大学を経て入社した、挫折を全く知らない人だった。あるプロジェクト
で一緒に仕事をする事になり、同い年でもあり同じ新入社員でもあると云う事で、
残業帰りに一緒に飯を食べにいくような仲間として交流していた。
ある時、電話番号を聞き出す事に成功した私は、「よっほ〜い、元気?」と
電話をかけたのだが、そこで私に転機が訪れてしまった。
その人「○○君、、、?」
わたし「おうよ」
その人「……」
わたし「なんよ。どないしたんよ。」
その人「……(シクシク)」
わたし「……(おいおい、、、何で泣いてるねん(汗)」
よく分からないままに、よく分からない言葉で励ましてみたのだが、それ以降
電話を掛ける度に泣かれ、掛かってくる度に泣いていた。よく分からないままに。
それまでは「大体、こういう事を考えているんだろう、女なんて」と分かった気に
なっていた私の脳の中に、「何考えてっか全然分かんねー(汗」と思わせた転機。
それ以降の私は女性恐怖症とでも云うべき程に、彼女らが云う女性心理とやらが
全く分からない人になってしまった。正確に言えば最初から分かっていなかった
と云うことになるのだが、「分かっていない」と云う事を少し気にするようになった、
と云えば誤謬は更に少ない。
馬鹿な飲み友達に、そういやこんな事があってさ……と切り出した時、彼らは
「泣かれたら口説いちゃえば良いんじゃないの?」と言っていたが、美しくないから
男としてそういうのだけはダメだ、と返した記憶がある。
数年後に発見された手紙には、「○○君のおかげで耐えられた」とあり、とても
セピア色の感じがした。そして、そういえば無くした携帯電話には彼女の番号も
あったんだよなぁ、と一瞬だけ思ってもみたのだが、そういった物はたとえ再び
顕れたとしても思い出したように電話をしてはいけない。
しかるべき時にしかるべき言葉を言えなかったくせに、「実は……」などと切り
出すのは、男として非常に美しくなく、当時の自分自身に対して失礼にあたる。
IFの容認など、絶対にしてはいけないのである。男として。
ただね、元気で暮らしているといいな、と。
2003/7/31 【他人を「若いな」と思えるだけ、自分は老人になっている。】
1000個のボール全てに、AからZまでアルファベットが一つずつ書かれている。
こういった仮定で「A」だけに着目した思考として、次の二種類を考える。
1.Aが1000個の中に含まれている事を証明しなさい。
2.Aが1000個の中に含まれていない事を証明しなさい。
順番に抽出していくのも無作為に抽出していくのも確率的には変わらないが、
抽出した物がAであった瞬間に、1の命題は証明された事になる。だが2の命題
に関しては1、000個全てを抽出し終わらない限りは有無が分からない。
こういった、在る事を証明するよりも無い事を証明する方が困難である命題を
悪魔の証明と呼び、分母集団(上で云うボールの個数)が大きくなればなる程に
必要となる労力は増大して行き、或る一線を越えれば不可能な証明になる。
つまり、反証され難い論とは「何かが存在する」と云う論である。
逆に、時間と労力をかけ、反証に必要なデータを以て論を否定する事とは
もっと高い評価を受けるべきである。
古より言われている、至極当たり前の事である。こんな事に関して議論の上で
自ら理解したり、長期間の思考の上で分かったりするのは、余りにも勿体ない。
変遷しない真実に時間や手間をかけるのは、時は金である以上は愚である。
2003/7/30 【再開に寄せて】
ネット再開、サイト更新開始を機会として、以前のDIARYを元に戻そうかとも
考えてみたのだが、あまりにも相手を限定するような文章が多いこともあり、
思うだけに留めておくことにした。
無くした携帯電話のメモリーが戻ってこない事と似ているが、共通するのは
一抹の寂しさと云う事だろうか。(気さえ向けば戻すのだが。)
どんな文章であっても、どんな書き方をしようとも、第三者を意識した物となる。
Web上に日記と云う名前で流れる文章であれ、机の鍵付き引き出しに忍ばせる
秘密の日記であれ、その事実だけは変わらない。だが、繰り返すようだが私の
文章は私的に過ぎた。再開するにあたって念頭に置くのはその辺りとなる。
電話恐怖症が一気に回復中である。
以前の電話番号には、NTTに頼んで変更した電話番号の通知をしてもらって
いるのだが、数年間あれだけ続いた無言電話や、遠くで話し声が聞こえる何とも
不思議な電話等の一切が雲散霧消した。これが私にとっては非常に大きく、
新しい番号にまで彼らが掛けて来ない事実が平穏を生んでいる。
着信拒否の設定をしているのはIP電話からの通話だけなのだが、それが
原因で無言電話がゼロなのだとすると、全ては同一人物だった事になる。ふむ。
現在、こんな感じの部屋でカタカタしている。→■
サウンドブラスター→Victorイコライザー→SONYアンプ(→50Wスピーカー*2)
→BostonBA735スーパーウーハー→サブウーハー*2。早い話が疑似5.1ch3Dを
実現させようと目論んで、高音をアンプ接続のスピーカーに任せて低音をカット、
ウーハー3本で低音出力を全て解放させる分担式で耳を癒している。
別のアンプに入れ替えて、120Wスピーカーをデスクの下で煉瓦置きさせて、
おぉ疑似7.1chだなぁ、と思ったりもしたのだが、デスク足のキャスターが全く
回転しなくなるので却下となった。音に凝れるのは嬉しいのだが、この遊びは
際限なくお金がかかる。昔好きだった物は今でも好きだった、と云う話。
2003/7/29 【ボロ雑巾】
高校時代からの友達曰く、作詞作曲を自分(or達で)行っているミュージシャン
且つ独創性を感じられる彼らの、さらに極一部だけをアーチストと呼ぶべきで、
十把一絡げで誰彼構わずにアーチストゝと称えるのは非常に気に入らないと。
当時の私は全面的に同意した物だが、一つの楽器のスペシャリストや声楽家と
呼んで差し支えの無いような人も、一括りにアーチストと呼んで構わないのでは
ないかと、現在は考えを変えている。
鬼束ちひろはアーチスト、柴咲コウは非アーチスト、私の線引きではこうなる。
反戦を叫ぶ歌詞であれ、愛や友情をささやく歌詞であれ、それを聞いて熱くなる
人や涙を浮かべる人が居るのは分かる。商業ベースで発売され不特定多数に
向けられた歌詞の中から、自分の心に届く言葉を抽出して感じ入るのだから、
私には分からずとも相手には分かっている状態は自然であると云える。
他人の考えを聞いた際に、相づちとして「人それぞれだからね。」と言うのは
馬鹿の要件として昔から嫌いなのだが、理屈を排した言葉のやり取りに於ける
「人それぞれ云々」は適当であろう。感じ方に対しては理屈は入り込まない。
歌詞の感じ入り方が人によって違うのは当然で、人それぞれで正解なのだ。
曲だけではなく詩に至るまでが作品である。どちらが先でも良いのだが、詩に
上手く当てはまるように曲を作り、また完成した楽曲に合うように詩を作る。
それがアーチストと呼ばれる人達の仕事である。
接着剤たるべき文節を書くのが面倒になり、見ようによっては散文なのだが、
全ては繋がっている。そしてここからが主。
創造と云う作業は理に於いても同様であり、借り物の言葉を縫い合わせた
だけの思考を聞いてしまうと、どうにも苛立ちを抑えきれない。商業アーチストの
歌詞をネタ元とした、粗悪な理を以て説諭された際の失笑たるや。
何らかの理由付けと過程が有って生まれた結論ではなく、誰かからの受け売り
であっても別に構わない。自分の考えが主、借り物は飽くまで従と云う比重を
忘れさえしなければ良いのである。
蛇足だが、この比重の逆転現象が意味する物とは、陳腐な思考と云う評価を
相手から与えられかねない事である。最低限の咀嚼能力を有する人を限定と
した話であって、想定から外れるような人との場合は議論その物が成立しない。