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2004/7/29 【天知る地知る……人も知るっ】
 ピンチだなと思ったり、よっしゃここじゃ!と態度を決めたり、そんな何か転機が
訪れようと云う時に頭の中でガンガン鳴り響く音楽がある。他人様には恥ずかしくて
聞いた事がないので私の例しか出せないが、それは即ち「大江戸捜査網」なのだ。

□隠密同心(おんみつどうしん)心得の条
 我が命、我が物と思わず。武門の儀、あくまで陰にて。
 己の器量伏し、ご下命如何にても果たすべし。
 尚、死して屍拾う者なし! 死して屍拾う者なし!

 どうやら関東と近畿では大江戸捜査網の再放送具合が違っていたらしく、関東は
里見浩太朗や橋爪淳が主役のバージョンばかりで杉良太郎が一切無く、近畿では
逆に杉良太郎しか放映しなかった様だ。どおりで私が杉様しか知らない訳だと。
 元々は水戸黄門の第一期に杉良太郎が出ていた事は有名だと思う。だが主役を
用意された杉様は、一大決心をしてその時代劇で主演する訳なのだが、それが
この大江戸捜査網だったのである。本当に腐る程に再放送していたので杉様の
大江戸捜査網はかなり覚えているのだが、そのオープニング曲こそが今も尚頭から
離れる事なく鳴り響き、この先も一生消えない気さえする名曲なのだ。
 曲自体の格好良さとしては、恐らく後のサニー千葉主演の「影の軍団」に負けると
思うのだが、何と言っても大江戸捜査網には心得の条を始め、オープニングでも
ナレーションが付いてくる。これが何とも言えず秀逸だった。子供心に、カキン!の
音と共に十文字小弥太(=杉様の役名)が現れるとワーキャー叫ぶ日々だった。
その刷り込みが今も生きている様で、今日もまた大江戸捜査網の曲が縦横無尽に
頭の中を駆け回っているのだ。

 正直、また見たい。何度でも再放送して下さい。


2004/7/28 【笑いとプライドによるフェルマーの定理】
 さぁ、いよいよ四日連続である。
 「笑わせる」と「笑われる」の差だが、人を笑わせる事に生き甲斐を感じて以来、
ずっと頭から離れないでいた境界線がこれだった。「わしは笑わせてるんであって、
お前らに笑われるのだけは勘弁や」との思いが非常に強く、何かを失敗して笑いが
取れた時などは真剣に気に入らない顔で相対してきたものである。
 これはプライドの問題だった。”お笑い論”と云う物が確立されるに従い、飽くまで
自虐で笑いを取る事をその本質と定めたのであるが、だからと云って自虐とは自ら
そぎ取った肉を食べてもらう行為であって勝手に食べられる類の物ではないとした
上で、私は他者を貶める笑いとは真逆の位置に立とうとした。上質の笑いとは私を
以て至上とすると云う、激しい個人主義の確立だったのだと思う。
 この世界を根底から壊したのは、毒舌で鳴らしている立川談志の一言だった。
「笑わせるのと笑われるのは結局一緒なんだよな」と。ガチーンと頭を叩かれた様な
気がしたのである。根底から価値観を揺さぶられた私は再構築を試みる事となる。

 3年か4年前に似た事を書いた気がするのだが、こう云った物は作家や作品と全く
同じ意味を持ち、つまりは「創造者である作者の手を離れた瞬間に、作品の全ては
享受者が全てを判断する」と云う事なのである。笑いもこれと等しく、言った言葉を
笑うのも、また笑われるのも、全ては享受者が決める事に他ならないのだ。そして、
結果的に笑い声を耳にする事が出来るならば、どちらに起因した笑い声であろうと
創造者は泰然自若としているべきなのである。
 創造者の心情など読めない、また読む必要が無い享受者が居る。笑い声の裏に
何があるのか読めない創造者が居て、それを伝える必要の無い享受者もいると。
ここに裏も表も無く、笑い声の裏に謎など無い。笑い声は笑い声に過ぎないのだ。


2004/7/27 【チンカス芸人のファンが暴れはっちゃく鼻づまり】
 アホみたいに三日も連続で同じ様な事を書くのだが。
 先日のFNS27時間テレビに於ける、明石家さんまの矢部浩之に対するツッコミが
物議を醸しているのだが、彼奴等――勿論ナイナイの痛いファンの事だが――の
言葉から十分納得できるだけの論を未だ一切目にしないのである。

 まず、「矢部が可哀想」と云う意見と、「さんまは酷い」と云う意見。
 サンダルで殴られた矢部は、「なんで?なんで?うそ?うそ?」と周囲に救いを
求め続け、今田に救ってもらってその場が収まった。だが数時間後に若手芸人との
絡みに於いて「俺ホンマ昨日のカマ騒ぎでトラウマなってんねん、あれはヘコムで」
とぼやくのである。
 カマ騒ぎのコーナー内、若しくは終了間際でも良いのだ。「むっちゃヘコみましたわ
さんまさん」の一言でも残しておけば、どちらも得をする形で終われたのである。
ところが矢部のした事とは、自分より下の第五世代の芸人のコーナーの中で愚痴
愚痴と先輩の悪口を言うと云う物だったのである。矢部と云う人間は、わざわざ
本人が居なくなった場所で愚痴をたれるまでに腐っていたのかと。
 そも、さんまは酷くないのだ。最初は我慢していたものの、いっこうに改善されない
下手な仕切りに業を煮やして叩いたのである。それを切り返すどころか「なんで?
うそ?」と素人並の返しで笑いを潰し、あまつさえ後輩の前で泣き言をするに至る。
ネガな方向でやるだけの事をやった人間を、過保護にも「可哀想」と言える人間は
その芸人本人を潰そうとしている事を理解しているのだろうか。
 更に、芸人の事を可哀想と言ったり、また思ったりする事とは、その芸人に対して
失礼に当たる事を忘れてはならない。「さんまは酷い」と「矢部が可哀想だ」は表裏
一体の感情であり、片方を強弁すればもう片方が顕在化してしまう類の物である。
「矢部が可哀想だ」と口には出さなくても、さんまを貶める事によって同じ点に収束
してしまう事を、ナイナイの痛いファンは気付いていないのである。
 舞台で泣き言をほざいた芸人はそこまでの芸人だ。過去に阪神の今岡に付け
られていた”最悪”のレッテルは、今の矢部にこそ相応しい。

 次に爆笑問題の件。
 爆笑問題にもコアなファンが多い様だが、言ってはいけない事を敢えて言う事と
笑いを取る事とは全く違う訳であり、爆笑問題の笑いが前者である以上は、彼らの
ファンが持つ笑いの境界線は失笑物である。
 モー娘の加護に対し、「加護ちゃん、もう初潮は来たの?」と生放送で聞いた事で
「太田は神だ」などと馬鹿が騒いでいるが、JOJOの奇妙な冒険第一部のDIOへの
賞賛の言葉「俺達に出来ない事を平然とやってのける!そこにあこがるゥ!」に
相通じる物があると思う。いちびりの糞ガキが跳ねっかえる事を「カッコイイ!」と
思って笑えるオツムとは、恐らくは幸せな造形なのだろうなと思う次第だ。
 最後にネプチューンの件。
 周りの状況を一切鑑みないと云うふざけた芸風で今までやってきただけあって、
そのドン滑り具合は惨たる物だった。3人の内の誰がどうだった、と指摘するのも
文字に迷う様な惨劇だった訳で、近々解散しそうな匂いまでが漂っている。

 んまぁ、私は自分が日本で10位圏内の面白さを持つと思って生きてきた痛い奴
なのである。赤塚不二夫のバカボンに収められているギャグではないが、「どうして
こんなにダウンタウンが好きなのに向こうは私を知らないのだろう?」と電波な事を
高校時代に本気で思っていた程に痛い人間であり、時折だが自己愛性人格障害の
要件を自覚する事もある。
 逆に言えば、そう云った痛過ぎる奴じゃないと笑いに付いて物を言わないよなと
自嘲もしてみるのだが、意外と本人は途中で飽きもせず糞真面目に書いている
訳であり、私と非常に近しい笑いの境界線を引く人が目にした時に「分かる分かる」
なんて形でこっそりニヤついてくれたら嬉しいな、とね。
 そういえば、ダウンタウンのチンカス以下のファンは、フジテレビの公式掲示板に
明石家さんまを叩く文章を投下したり、苦情電話窓口でくだを巻いたりしたらしい。
松っちゃんが著作で”電話をかけてしまうファン”に対して至極納得できる文章を
書いていたものだが、チンカス芸人もチンカス芸人なら、そのファンもファンらしいな
と至極納得してしまったり。ぺっ。


2004/7/26 【甚だ下賤なる用法】
 影響力のある芸人が使う言葉が一般化してしまう事は多々ある。「逆ギレ」もその
一つだが、「空気を読む」と云う言い回しも同様である。ただ、後者は余り好きな
言葉じゃないなと常々思っていたのだが、ようやくその理由が分かった気がする。
 「空気を読んで、ほげほげするように」と云う形や、もっと短縮して「空気を読め」と
扱われる事が多い。これとは、即ち「自分の思っている通りに物事は進め」と云う
ワガママの発露であったり、「思っている様にならないのは貴様のせいだ」と云った
度厚かましい感情の漏出なのである。
 「場の空気が悪くなる」にしても、その”場”を構成する人間の過半数以上から
「空気が悪くなった」との言質を取らなければ言えない言葉であるのに、”全員の”
と言えない代わりに”場の”と言い換える事で言葉の裏打ちを糊塗してしまうのだ。
そして、それはマイノリティが声高に権利主張を行う論法と酷似している。


2004/7/25 【27時間テレビの深夜枠を見て】
 誰が面白いだの、誰の笑いのセンスが無いだの、お笑い論だの、大阪の人間は
「わしが一番面白い」と思って生きてきただけあって、大人になってもそれが消えて
なくならない人が多い。一方で他地域の人から「いい年をして、何を真剣にお笑いを
語ってるの?」と突っ込まれた事が少なからずあり、その理由を聞いてみれば、
大人になれば”笑い”を論じなくなるのだとか。
 更には「笑いとは飽くまでも場繋ぎエッセンスの一つであり、それ以上では無い」
とまで言われるに至って、内心「つまんねぇ奴だな」と思ったのも事実なのである。
糞真面目な会議中でも、初対面の人との打ち合わせでも、SEXの最中であっても、
何か一つは笑いを取ろうと脳を働かせてなんぼである――と思って生きている。

 ビデオに撮っていた分も併せて、昨夜のCX系27時間テレビを見ていたのだが、
やはり明石家さんまには誰も敵(かな)わない。
 一つ目は、SMAP中居とのコーナーでの一幕。雑誌のモデルをしている女性と
イタリア料理を食べに行き、初めに前菜が出たと。そこでナイナイの岡村が受けて
「初めに前菜が出てっ?」と言った時に、前菜→zensai→前妻と変換したさんま脳は
大竹しのぶの事を瞬時に語り出した。もちろん番組を見ていない人はサッパリの話
だとは思うが、その時の笑いの間と反射神経が「おぉ、まじスゲェ」と云う物だった。
 立川談志曰く「笑いの反射神経は年齢と共に落ちていくが誤魔化す手段もある。
キーワードで幾つものネタを繋いでおいて、その内の一つにでも引っかかったら
そこから広げればいい」と。自虐がネタの本質である以上、離婚ネタなどは近似値
であっても明石家さんまは貪欲に拾うのだと思うが、立川流の誤魔化し方では
とても補えないだけの能力を垣間見てしまい、「あぁ健在だな」と再認識させられた。

 もう一つは”カマ騒ぎ”のコーナーだったのだが、収拾がつかない程にボケ倒す
出演者の頭を、ナイナイの矢部がメガホンで「はよ席につけって」と叩くだけの
突っ込みしかしていなかった。それを見た明石家さんまは、履いていたサンダルで
矢部の頭をパンパン殴り、「おまえの突っ込みは冷たすぎるねや」と。
 第二世代の明石家さんま、第三世代の今田耕司を除いては、全員が第四世代の
芸人で固められていたコーナーだったのだが、所属事務所が普段とは違ったのだ。
司会のナイナイを含めて吉本興業が多く、一緒に番組をする松竹芸能のよゐこに
対しても矢部は普段通りのキャラクターで良かっただろう。ただその中にナベプロ
所属であり余り絡んだ事の無いネプチューンが入っていた以上、いつもの岡村だけ
マンセーしておけば良いと云う突っ込みでは成り立たない。
 丸く言えば愛情が無く、意地悪く言えば膨らませられないのだろう。勘は悪くない
と云うのに勿体ない話だ。


2004/7/19 【うんこ日記】
 「海に行こうよ」と言われ、いい年をした男同士で行く場所が海と云う選択肢に、
思わず腹が立ってしまう。「防波堤釣りならいいんだけどなぁ」とやんわりと抵抗し、
結局は付き合いの悪さMAXの演出である。元から「〜しない?」の類の誘いには
否とのサインを返すのだが、年々これが酷くなってきていると自覚する。勿論誘いは
完全無視であり、後々に響きそうな断り方だったなぁと苦笑い。
 連休だったこともあり阪神高速がえらく混んでいた。首都高速であればある程度
降り口や乗り口が分かっているので慌忙(あたふた)としないのだが、阪神高速は
7年か8年ぶりな訳で、守口線の北浜出口でオロオロしつつ渋滞の中で汗を滴り
落としていた。
 渋滞15kmなんて文字が電光板に出ていて「うへぇ」と思ったが、混雑の理由をよく
よく考えてみれば、京都では恒例の祇園祭だったのである。「来週は天神祭だな」
とはボンヤリ覚えていたのだが、うっかり祇園の混雑に巻き込まれたようであり、
道を変えようにも土地勘など今は昔。海に繋がる下の道でも軽く渋滞は20km程に
達していたのを思い返し、やはり連休中に遠出をするものじゃないなと猛省である。


2004/7/15 【悪口を言わない人間】
 性別の差なのだろうと思う話。
 女が3人集まれば派閥が出来ると言われるが、男に於いては当てはまらない。
3人として一つにまとまるか、お互いに適度な距離を置いた3人になるかである。
ここには仲間意識が出来上がる際の大きな差が存在する。

 例えば、男同士では人の悪口をあまり言わない様にすると云う美意識があり、
多少は「あいつもアレが無ければなぁ」と愚痴に近い物をこぼす事があっても、
本人に聞かれては困る過ぎた愚痴、つまり悪口と呼ばれる物に変質した愚痴を
「そろそろ言うの止めようぜ」と歯止めをかける人間が居る。そしてまた、歯止めを
かけられた側も「そうだな、ちょっと言い過ぎたか」と自省できる。
 一方で女同士の場合では、集まって人の悪口を言う時、皆と一緒になって悪口を
言わない人間を「いい格好するなよ」と思う訳だ。愚痴は悪口、悪口は罵詈雑言に
変わっていっても、それに歯止めをかけた人間が次の標的にされる以上は、誰も
それを止めたりせずに、行くところまで行ってしまう訳である。一連の流れに於いて
自省と云うプロセスは一切存在しないのだ。
 言っていた陰口が、その陰口相手に露見した時の対応も差がある。男の場合は
「確かに言った、お前が言われるだけの事をしたからだ」と、ある意味で腹をくくり、
またある意味で開き直って向き合うのに対し、女の場合は「言っていない」と平然と
嘘をつく。

 悪口を言う事で育まれる仲間意識など糞以下だと思うのだが、「悪口を言う時に
一緒になって言えない奴は信用できない」などと云うロジックがまかり通る女に、
少々肌寒い物を感じた訳である。男同士に於いて「あいつは悪口を言わないな」が
尊敬される存在になるのに対し、この差は何だ?と。
 一方では、男の中にも際限なく悪口を言って盛り上がる連中も居るのだが、その
不幸とは自省できない部分は勿論のこと、その仲間内に歯止めをかける人間を
擁さない所にあるのだと思う。女が女子校ノリを一生引きずるのもみっともないが、
男で女子校ノリの人間は全く救いようがない。


2004/7/9 【思わず現実逃避したくなる一瞬】
 「横浜でデートするならどこがいいかな?」などと、私に聞くなんてなぁ……と云う
類の質問をUO時代からの友人からされて、確かどこどこが良かったよ、と記憶を
掘り起こしながらコースを色々と考えてみた。横浜スタジアムも美術館も微妙に
ハズレの時期であり、だからと云ってテクテクと室外を歩き回るには辛い時期だ。
おまけに花火大会も少し先の話。結局、あまり良い答えを提示できなかった。
しょうがないよ、聞いた相手が私だもの。
 心にフタをしている訳ではないのだが、私にとっては、神奈川、もっと限定すれば
横浜と云う地名を禁忌にしている節がある。夜中の2時に呼ばれ、バイクで1号線を
かっ飛ばして会いに行った人から始まり、どうにも引っかかっている物が多すぎる。
良く言えば思い出になるのだろうが、悪く言えば汗の出る記憶である。
 夜中にワーっと声を出して目覚めたり、寝ようと思って目を瞑っている時に奇声を
あげてしまう事が年に何度かあるのだが、それはこう云う事を思い出してしまった
時なのである。思わず無人島で隠遁生活を送りたくなるような記憶を呼び覚まし、
「あああぁあっ」と声にならない奇声をあげるのは、男性だけの行動かもしれない。
切り替えが悪いとでも言おうか、なかなか忘れないとでも言おうか。

 「良い思い出も一つだけあるか」なんて一瞬思ったが、過去に執着した瞬間に
男としては終わると思い、危うく回想状態になるのを止めた。私は成長しねえなぁ。


2004/7/6 【大河ドラマ評】
 もうそろそろ私評を書いても良い頃合いだろうと。
 頭のおかしい少女漫画家じゃないんだから――と批判的な物の見方はしたくない
NHKの大河ドラマ”新撰組!”なのだが、受け入れられない部分とは精神性に起因
するのだろうと、漸く確信めいた物を抱くに至った。

 幕末を語る上で抜け落ちてはならない物とは、水戸から始まった尊皇攘夷論、
井伊直弼が推し進めた公武合体論、吉田松陰が松下村塾で説いた富国強兵論、
そこから始まる倒幕論、芸州ら四藩による雄藩連合論、土佐による大政奉還論。
これらの観念的な物を抜きにしては語れない。
 もちろん実利によって薩長連合を成し遂げ、実利によって思想的軋轢を緩和し、
また取り除いていったと言われる坂本龍馬は有名だが、水戸派思想は井伊直弼を
桜田門外で暗殺して幕末時代を開き、維新後のやり場のない倒幕論は西南戦争を
起こす訳である。幕府要人を切り続けた志士であっても、その熱量や知識量に差が
ある中で尊王攘夷を語り合っていた訳である。
 この時代の中で異質の存在が新撰組なのだ。彼らには一切の思想が無く、ただ
「お上は偉い」と云う、いかにも百姓らしい盲目さで人殺しを続けたのである。維新
志士をして「”藩”があっても”日本”がない」と言われる事は多いが、新撰組に
於いては「”徳川様”のみ」であって他がなかったのだ。
 ところが大河ドラマでは、新撰組局長である近藤勇は”日本”を憂い、人斬りを
喜ばない風を描き続ける。赤穂四十七士を描く時に赤埴(あかばね)源蔵を赤垣
(あかがき)源蔵とするのとは異なり、180度史実と異なる描き方をされるのは、
どうにもしっくり来ないのである。腹が立つ、と言ってもいい。
 その最右翼が、芹沢鴨を暗殺したくだりを放送した回だった。新撰組の中に於いて
武士出身である芹沢を、百姓出身の連中が暗殺するのだが、史実では芹沢鴨と
一緒にいたお梅と云う女共々新撰組に惨殺されている。しかし大河での描き方は、
お梅は芹沢を追って自ら腹に刃を立てて自殺――と、どこまでも新撰組を悪く描こう
とはしない。最もきゃつらの残酷性が垣間見える話であるにも拘わらず、だ。
 思想的背景も無いままに、ただ残虐に人を斬り殺し続けた百姓が、史実を無理に
ねじまげた上で美談として描かれる気持ち悪さは堪った物ではない。極悪の代名詞
こそが新撰組であって然るべきなのだ。類い希なる能無し殺戮集団を美しく描こう
だなんて、余りにも虫が良すぎるとは思えないのだろうか。

 会津藩の子孫の方々には、西国雄藩、特に薩摩や長州に並々ならぬ感情を持つ
人も未だに居るのだと思う。都会でアイデンティティを構築しようとする人には全く
以てナンセンスな話なのかもしれないが、私はそんな郷土の歴史に根ざした物が
堪らなく好きだ。そうではなくてはな、とすら思う。
 同時に、新撰組に好意的な西日本の人間の言を聞くのは非常に嫌な物である。
国を憂う事もなく、盲目的な幕府愛をして京都を血で染め上げた余所者を、毛嫌い
するどころか評価するだなんて、とね。


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