第一章
2002年11月17日、W−1(Wreste-One)でZERO−ONEの橋本が、
そして全日本プロレスの武藤がリングに上がり、蝶野が解説席に座った。
解説席に座る前にリングに駆け上って叫ぶ蝶野。
「俺だけを見てればいいんだ!」
簡単な歴史を紐解く。
元々プロレス団体は一つしかなく「日本プロレス」と云う物だけが存在した。
ここには力道山、元巨人のピッチャーだったジャイアント馬場(馬場正平)、
そしてアントニオ猪木(猪木寛治)らが名を連ねていた。
戦後、日本プロレス旗揚げ前にあった団体は「プロ柔道」であり、そこには
講道館柔道の”鬼”木村政彦や”満鉄の虎”山口利夫が居たのだが、
力道山との試合でヤオ(八百長)の規定を一方的に破られ、
「日本最強は力道山」というイメージ戦略の傘下に入ってしまうことになる。
(まぁ、力造山は北コリアン出身なのだが)
こうして、とりあえずは力道山一極体勢が作られた事になるのだが、
剛毅な性格が災いして弾丸に斃れる事になる。
力造山のとりまきは最悪だった。
芳の里、吉村、遠藤、豊登が金を湯水の如く使う中、若いアントニオ猪木は
一人受難の中にあり、ジャイアント馬場は可愛がられてエリートコースを歩む。
様々な「ふざけるな」と云う想いが募った結果「東京プロレス」を旗揚げするが、
やはりベイビーフェイス、あっさりと潰れて日本プロレスに出戻ってしまう。
離脱するまでは馬場vs猪木のカードが組まれた事もあったが、今となっては
馬場は日本プロレスの看板、同じタッグチームとしてしか試合は組まれない。
拭い去る事が出来ない猪木の「ふざけるな」の想いは、馬場を誘っての
”とりまきの追い出し”工作を考え出させる。
馬場も乗じて「すわ決起」という段になって、上田馬之助が芳の里に情報を
リークし、馬場も猪木の独断専行に袂を分かつ。
結果的に逆に猪木が日本プロレスから追い出される事になり、
看板選手は猪木一人きりと云う状況で、新日本プロレスが旗揚げされる。
後に日本プロレスから馬場が離脱して全日本プロレス設立。
日本プロレスの”世界の荒鷲”坂口征二と、新日本プロレス猪木の握手。
坂口を追い出した、反新日派の大木金太郎ら日本プロレスの解散。
日本プロレスが潰れても猪木は裏切った馬場を許すことは無かった。
馬場は一切の口を閉ざしたまま鬼籍に入ってしまったのである。
馬場と猪木の因縁、この二人は袂を分かって以来一度も試合が行われる事無く、
それは両団体に属していた選手に於いても同様であった。
どちらのリングにも上がった選手も多少は存在し、スタン・ハンセンや
ビッグ・バン・ベイダーなども其れに該当すると思う。
しかし一番巧く渡り歩いたのは、結局長州力だけだったのではないだろうか。
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