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2005/3/12 【桂文枝死去】
 上方落語四天王と謳われた方の一人であり、桂一門の中でも弟子に三枝や文珍
といった全国区のタレントを持つ事でも知られている。その一方で、四天王の中でも
最も巧いのではと言われた”文枝”の名跡を継ぐに相応しい人間を育てられなかった
とも言われているのが面白い。
 三枝は古典落語をあまり演じない事、文珍は天才を周囲に標榜している事、更に
両者ともに彼ら自身の灰汁の強さが周囲から慕われない原因になっていることが、
どうやら文枝にも分かっていた感があり、ガンという死期を覚り得る病であったにも
関わらず、ひょっとすると遺言状にでも認めてあるのかもしれないが――”文枝”の
後継を誰にするかと云う事を明言しなかった。先の二人以外の候補者となると、
きん枝や小枝、そして数十年後のあやめになるのだろうか。
 江戸落語ではどこぞの誰やらが分不相応な名跡を継ぐどころか、あまつさえ上野の
街をパレードするというニュースが流れていた。伝統ある上方落語では、下方の様に
ひょいひょいと名跡を軽んじたりせずに、衆人が満足する方に伝統を継いで欲しいと
思うのである。

 僕は四天王の中では桂米朝が最も好きである。”はんなり”という言葉を感じるのも
米朝の言葉に於いてであり、生き字引としてでも長生きを望む一人なのだが、それは
さておき。最近耳にしなくなってきている大阪弁の一つとして、ふと思い出した物が
あったので書き留めておこうかと思った。「おしまい」である。
 辞書で調べても載っていないのだが、これは大阪弁では「こんばんは」を表す。
もちろん、「おしまいには〜」と云う形で”最後は〜”の意味も表すのだが、ばんげに
(=夕方から夜にかけての時間に)会った顔見知りの人に対して「おしまいやす」と
挨拶を祖母がしていたのを、子供の頃に確かに聞いている。
 名跡は数百年ぶりに復活なんて事が可能だが、方言は失われる時は早い物だと
思うので、備忘録っぽくも書いてみた次第ですわな。


2005/3/9 【ライブドア】
 ライブドアの社長である堀江は、どうして引けないのだろうか。一時は辛酸をなめる
事になっても後々に再び勝負をする機会はあるだろうに、と思ってしまう。臥薪嘗胆
なんて言葉もありますしな。
 全てのマスコミが何を伝えているのかは分からないが、耳にし目にするそれらは
ライブドア有利か?とまで思わせる論調であり、蒙昧な視聴者をある種煽っている
かのような印象を受けざるを得ない。本裁判にまで及んだ時に出てくるであろう
供託金額の予想などを伝える物は少ない上に、肝心要の”ニッポン放送を支配した
時の旨味の無さ”を丁寧には解説しない。頻繁に見かける物は、恣意的とも思える
”ライブドアvsフジテレビ 勝つのはどっち?”なる街頭インタビューで時間を繋ぐ報道
であっては、視聴者に正確な未来図は見えてこないだろう。

 東京地裁がどういった判断をするのか。
・フジサンケイグループの一つとしてのニッポン放送、という位置に置いてこそ企業
価値が生まれのであるから、フジテレビを対象とした新株発行は株主に不利益を
もたらす物ではないとする包括的な考え方。
・企業価値を決定するのは経営陣ではなく、あくまでも株主でなければならない。
故にニッポン放送経営陣の類を見ない枚数の新株発行は、株主から十分なる
ヒアリングの結果として為された物ではない以上は、著しい不利益を産みかねない
物であろうとする考え方。
 専門家ですら真っ二つに別れている仮処分の予想だが、法理念が飽くまでも民事
に基づく物だと考えれば、今回の係争は前者の考え方に拠らなければ歪な形となる
と思われる。法は法に依って立つ――のは、やはり刑事のそれであろう。

 大正時代の鈴木商店、今の日商岩井などの前身となる企業だが、鈴木の番頭
金子が最後に一発逆転で講じようとした”台湾銀行に対する震災手形整理法案”は
三井グループの手によって握りつぶされ、結局は倒産の憂き目にあった。鈴木商店
ほどには行き詰まってはいない現時点で手を引けなければ、この先で二度と勝負が
出来ないほどのダメージを堀江は負いかねない。


2005/3/5 【新・ホームズの冒険】
 沈鬱とした気分を身にまとっている事や、またそれをナルシシズムの材料として
扱うだけの恥知らずでも無いために、いささか鈍いながらも僕なりの歩調を保つ
事で浮上を確かめていた。昨年最後に触れた日記の”R.I.P.”とは、実の兄の様な
眼差しで僕を見ていてくれた人を偲ぶ物だったということ。
 今日までの間に様々な事があったが――僕にとって一番大きな事とは、やはり
甥が産まれた事なのだと思う。

 ま、ぼちぼちと気分的な上昇と下降を繰り返しつつも、元気だったって事ですよ。


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