第三章
アキラは激怒した。
必ず、かの邪智暴虐の王である新間を除かなければならぬと決意した。
アキラには誰が一番強いのかがわからぬ。アキラは、格闘家である。
顔面を蹴り、キャプチュードを撃って暮して来た。 −走れメロスより−
居場所を失った前田日明。
”格闘王”前田としてすでにファンにカリスマ扱いだったことは、
訳の分からぬ解雇をされた彼を後押しした。
「俺達は前田の試合が観たいんだよ」
そして突然の解雇から数ヵ月後、1988年5月12日後楽園ホール。
新生UWFの旗揚げ戦が行われる。
「選ばれし者の恍惚と不安、二つ共に我にあり!」
前田のこの叫びに、ファンは唯々打ち震えた。
その頃佐山サトルは、自分なりの最強の形を探して”修斗”という格闘技を、
第二次UWFとが旗揚げする前に作っていた。
元々プロレスに愛情がある風には見られず、もしかしたら、より最強を
追い求めていたのは佐山だったのかもしれない。
この修斗、別名シューティングはやや成功する。
古代ローマでは「投げる・打つ・固める」と云う三大要素の行き着く先として、
”パンクラチオン”と呼ばれる格闘技があった。
主にコロッセウムで奴隷階級同士を戦わせる趣向として、パンクラチオンが
格闘技として存在していたのだが、この三大要素は時代が変わろうとも
本質は変化する物では無い。
佐山のすごい所は、これを技として具現化し、さらにルール化したことである。
思い返せば第一次UWFの時も、ルール化に勤しんでいたのは佐山だけだった。
このより実践的な理論が、アメリカで息吹く。
アメリカでは空手やテコンドーが進出していたものの、
多種多様な国民性は常に新しい物を好む。
アメリカの修斗道場は、ブルースリーが未完成だったとは云え理論構築をした、
ジー・クン・ドーを取り入れたのである。
八極拳が肘、蟷螂拳が指など、主に急所を突くことを目的とした少林拳とは違い、
ジー・クン・ドーはどちらかと云えば極真四国支部、芦原英幸の”サバキ”に近い。
一つの動きには一つの裏づけがあり、それが次ぎの布石に。
こういった理論が佐山の手で完成され、シューティングは独自に最強の道を
歩みだしていた。
佐山が居ない第二次UWF。
前田日明は悩んだ。
客の目を意識し、他のレスラーを満足に食わせていくためには、
前回のようにスポンサーが付かない状態では困るのである。
日本テレビは、馬場の全日本。
テレビ朝日は、猪木の新日本。
そして、TV局が付いていない第二次UWF。
TVが付いていないマイナー団体という立場は変わらない。
ファンも危惧した。
「これじゃ、第一次UWFと変わらない。潰れてしまう」
しかし、前回とは大きく違っていることが一つだけあった。
”最強”のカリスマは、前年、猪木から前田日明へと移っていたことだ。
蓋を開けてみれば、ビデオは売れに売れ、会場は満員御礼の日々が続いた。
第二次UWF革命は成功したのである。
順調だった。
最強神話、満員神話、第二次UWFの流れは止まらなかった。
これに目を付けた人が出てくる。
全日本プロレス時代、メイン前の前座にしか出られなかった大仁田厚である。
大仁田にはマイティ井上というライバルがいたのだが、体が小さいことと、
馬場の「でかいもんが強い」の原則にそぐわず、中々勝ち星には恵まれなかった。
ある日マイティ井上に叫んだ。
「今日俺が勝てなかったら、全日本プロレスから引退する」
結果は散々たるものだった。
しかし、大仁田は第二次UWFの成功を見てしまう。
前田日明にケンカを売って知名度を上げ、ついには自分の団体を
見事に立ち上げてしまったのである。
これがFMWであった。
全日本プロレスでは、馬場社長を筆頭に「楽しいプロレス」を掲げ、
最強プロレスラーであるジャンボ鶴田を筆頭に、三沢光晴、川田、田上、小橋の
四天王時代へと歩みつつあった。
新日本プロレスはヘビー級の選手が大量に流れてしまったことと、
猪木の十八番となりつつあった”格闘技世界一決定戦”から輝きを失ったこと。
最強幻想が伴わない新日からは、コアなファンが抜けつつあったのである。
時代は、全日本と新日本という二大メジャー団体ではなくても、
興行をして選手が食べていける時代になったことが証明された。
続く形としてFMWを始め、さらに新しい息吹が出現しつつもあった。
第二次UWFはまさしく大革命であったのである。
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